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ランバレの丘 [アスンシオン点描]

帰国がいよいよ明日に迫り、今日がパラグアイで過ごす、最後の一日となりました。どこへ行こうか悩んだ結果、そのうちにと思いながら、結局延ばし延ばしになってしまっていた“ランバレの丘”へ行くことに。ランバレの丘は、『地球の歩き方』にも載っている観光名所で、セントロ(市の中心部)の南約7kmほどのところにある、アスンシオン市内が一望できる小さな丘です。


写真上は、ランバレの丘へ向かう途中の道路沿いに立っていた教会。寄ってみる時間がなかったので、ここは車内から写真を一枚撮ったのみ・・・。

幹線道路から少し脇道に入り、ランバレの丘のスロープを車で登ることわずか数分で、小さな丘の頂上にたどり着きました。写真上が、頂上の展望台から眺めたセントロ方面(北方向)の様子。地平線からわずかに飛び出て見えるのが、セントロに立つ高層ビルです。ここから肉眼で、ホテル内山田も辛うじて確認することができました。ランバレの丘はセントロから車で30分ほど離れた郊外に位置しており、建物が少ないこともあって、家々はまるで深い緑の中に埋もれてしまっているかのようです。普通に街を歩いたり、車で走っているときには、ほとんど意識することはないのですが、アスンシオンはこんなに緑の多い街だったのだなと、この眺めを見て改めて実感しました。

         

手元の地図で見ると、ランバレの丘の標高は約150メートル。ホテル内山田の立っている辺りが標高約120メートルなので、ビル1階分を約3メートルと見積もると、ホテル内山田の高層新館19階にある展望室の方が、ランバレの丘よりも若干高いところに位置していることになります。ちなみに写真上が、ホテル内山田の展望室から北方向を眺めた様子。パラグアイ川の向こう、地平線の辺りがチャコ地方に当たります。

         
写真上は、頂上の展望台に立つ巨大なモニュメント。アスンシオン市の地図には“Monumento a la Paz”とあるので、「平和記念塔」とでも言うのでしょうか。なおランバレの丘は、この地がスペイン領となった際、最初の要塞が建設された場所なのだそうです。

ダンナの仕事の都合でパラグアイへ行くと決まったとき、インターネットやガイドブックなどで、おそらくいちばん最初に名前を覚えたアスンシオンの観光名所が、このランバレの丘でした。初めてパラグアイを訪れた一昨年の9月当初からずっと、行ってみたいと思っていたものの、セントロから路線バスで向かう場合、ふもとで降りて歩いて登る必要があるのですが、近くを流れるパラグアイ川の河川敷がスラム化しているためあまり治安が良いとは言えず、かつて社用車がなかった頃は、なかなか行くことができずにいたのです。延べ約4ヶ月にわたる滞在のまさしく最後の日に、そこへ行くことになったのも不思議な縁で、他に思い残すことはないと言うと嘘になりますが、帰国前日にここへ来ることができて、今はただ、本当に良かったと思っています。


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チャコ平原を駆け抜けろ! [アスンシオン点描]

蒸気機関車の発車を見たその足で、再び車に乗り込み、今度はパラグアイの草原地帯であるチャコ平原(グランチャコ)を目指します。“チャコ”と聞いて、「どこかで聞いたような・・・」と思った方もいらっしゃるかもしれません。そう、アルゼンチンの草原地帯“パンパ”とともに、昔、地理の授業で覚えさせられたことがありましたね。私は「こんなこと覚えて、何の役に立つのやら」と思いながらも、言われるがままに「チャコが北で、パンパが南・・・」と、白地図にマルで位置を記した記憶があります。中学校だったか高校時代だったかも忘れましたが、子供の頃に名前だけ覚えたこのチャコ平原を、一度車でブッ飛ばしてみたかったのです。


上の図の中央右側にあるのがパラグアイで、アルゼンチンとの国境近くの★印が首都アスンシオン。国土を南北に突っ切って流れているのが、図中水色で示されているパラグアイ川(Rio Paraguay)で、この川によってパラグアイは東部と西部とに分けられています。パラグアイ川はのちにパラナ川に合流し、最終的にラプラタ川となって大西洋へと注ぐ河川であり、チャコ平原(図中緑色の部分)はこの川の西側に広がっているため、パラグアイ川に面する首都アスンシオンは、チャコ平原と川一本を隔てた場所に位置していることになります。しかし、チャコ地方にかかる橋と、アスンシオンのセントロ(市の中心部)とは少し距離が離れており、車で走っても30~40分程かかります。これは今から70年ほど前、ボリビアがパラグアイのチャコ地方へ進出してきたことで起こった国境紛争、通称“チャコ戦争”などにより、チャコ平原へと続く橋は首都警備のため、敢えて国家の中枢部から離れたところに設置したのだと聞きました。

 
写真上が、チャコ地方へと渡る橋の上から見た様子。正面が北(上流)で、右側がアスンシオン市内方面、左側がチャコ平原です。こうして並べて見ると、「どっちもどっちの田舎じゃない?」と思われるかもしれませんが、市内から橋へと続く道路には、そこそこ商店などもあって町らしい様子を呈しているものの、川沿いのエリアはアスンシオン市内側であっても、写真のようにほぼ手つかずのままか、逆にスラム化しているかのいずれかというのが現状です。


こちらがチャコ平原の道路の様子で、正面がアスンシオン市内方面、手前がボリビア方面。通る車もまばらですが、この道路はボリビアとパラグアイをつなぐ国際長距離バスのルートになっています。

チャコ平原を車で走ると、川を渡るまではあちこちで目にしていた背の高い木が、こちらにはほとんどないことに気づきます。目につくのは、チラホラと点在する低い灌木のみで、あとは一面の草原です。地下水調査の仕事をしているダンナによると、チャコ地方の地下水には塩分が多く含まれているためチャコに暮らす人の多くが、今も生活用水を天水(雨水)に頼っているのだとか。東部に比べて雨が少なく、水を多く使う農業には向いていないのでしょう、主に放牧地として利用されていることもあって、辺りには人や自動車の数に対して圧倒的に牛が多く、あちこちでのんびりと草をはみながら、それぞれが好き勝手に移動しています。車を降りて近づいても、これといって逃げもせず大人しいものですが、自動車は牛などおかまいなしに、ものすごいスピードで道路を駆け抜けていくので、ときには大型車にはねられた牛が倒れて死んでいたりすることもあるそうです。

 

チャコ地方には、以前からこの地に住む土着のパラグアイ人の他、1920~30年頃にヨーロッパから移住してきたキリスト教プロテスタントの一派、メノー派(メノナイト)の人々が暮らすコミュニティがあります。彼らは現代の文明の利器を使用せず、今なお近代以前の自給自足生活をしていることで知られ、男性はオーバーオールにシンプルなシャツと麦わら帽子、女性は地味色で無地のロングスカートのワンピースと、ひっつめ髪にボンネットという、大変古風なスタイルを守っています。イメージで言うと、『大草原の小さな家』の時代の衣装を、さらに質素かつ地味にした感じで、私がアスンシオン市内で見かけたときは、スーパーでの買い物を終え、年代ものの灰色のピックアップトラックへと乗り込む最中でした。本来は馬車を使って移動するのでしょうが、メノー派にも様々なグループがあるらしく、このコミュニティの人たちは現代文明をある程度取り入れた生活をしているのでしょう、そのときも確か缶詰か何かを買っていたと記憶しています。「あんまり見ちゃ失礼だ」と思いながら、同じ時代を生きる人間にはとても見えず、そこだけタイムスリップしてきたような古風な姿が気になって、ついつい見ないではいられません。日本では“メノナイト”よりも、その一派であるアメリカの“アーミッシュ”の呼び名で、彼らの作り出す非常にシンプルなスタイルの家具や、端切れを縫い合わせたパッチワークキルトなどが広く知られています。パラグアイのチャコ地方には、“フィラデルフィア”という名称のメノー派の人々の町がありますが、普通フィラデルフィアと言って思い出すのは、アメリカはペンシルバニア州の都市名でしょう。このアメリカのフィラデルフィアには、アーミッシュの人たちの大きなコミュニティがあり、またメノー派の人々が最初にヨーロッパからアメリカ大陸へ移り住んできた由緒ある場所だそうですから、パラグアイの町に同じ名前がつけられたのは、このことといくらか関係がありそうです。

なお、昨日アスンシオンの観光列車について書きましたが、かつてはパラグアイ北部にも、パラグアイ川と内陸とを結ぶ鉄道が延べ600km以上にもわたり、何本も敷設されていたのだとか。主に物資の運搬用として運行されていたものの、前述のチャコ戦争時に兵隊を移送したり、またメノー派の人たちが入植してくる際、一時的に旅客を載せて走ったこともあったのだそうです。

 
写真左上のように、な~んにもないところで、ドライブしていても景色にこれといった変化もないため、早々に飽きて引き返してきてしまったワケですが、こんなことでもなければ二度と足を踏み入れることもない場所ですから、行っておいて良かったと思います。写真右上が、チャコ平原から再び橋を渡り、アスンシオン市内側へ戻ってきた道路の様子。実は以前、まだ社用車がなかったとき、路線バスでチャコ地方の、いちばん近くの町まで行って帰ってきたことがありました。便数は必ずしも多くはないものの、チャコからアスンシオン市内まで働きに出る人たちの足となっているのでしょう、写真の右側に写っている赤と緑色のバスが、チャコ平原とセントロ間を結んで運行しています。このバスを使えば仮に自家用車がなくても、ちょっと様子を見に行くだけなら、セントロからチャコ平原へ行って帰ってくることも可能です。

さて、帰国を明後日に控え、明日がいよいよパラグアイで過ごす最後の一日となりました。明日はどこへ行こうかな・・・。


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薪の機関車 [アスンシオン点描]

以前、TV朝日系列の番組『世界の車窓から』で放送されたこともあるそうですが、パラグアイには南米で最も古い時期に開通した、蒸気機関車の鉄道があります。最初の500ヤード(約455m)分の線路が完成したのが1857年、操業開始は1861年10月で、もちろんイギリス人やドイツ人の技師たちによって築かれたとはいえ、1830年代に蒸気機関車の運行がスタートしたアメリカから遅れることたったの30年、日本では鎖国政策が終焉を迎えた開国直後の時代に当たるわけですから、当時のアスンシオンが大変近代化の進んだ街だったことが分かります。かつては、首都アスンシオンからパラグアイ南部の都市エンカルナシオンまでの区間約350kmを、丸一日かけて走る旅客列車が運行しており、また、そこからさらに遠く離れたアルゼンチンはブエノスアイレスまで貨物列車が定期的に走っていた時代もあったのだとか。しかし、脱線事故を機に運行が中止され、機関車も線路も、その後使用されることなく放置されていたのだそうです。なお、蒸気機関車はふつう石炭で走るものですが、パラグアイのこの機関車は、何と薪を燃料にして走っていました。

その後、この薪で走る蒸気機関車を、パラグアイの新しい観光資源にしようという案が出たのでしょうか、機関車や線路の修理・整備が行われたのち、ついに2004年、一部区間で観光列車の運行がスタートしました。本来の始発駅は、首都アスンシオンのセントロ(市の中心部)にありますが、こちらは現在駅として機能しておらず、セントロから7kmほど北東にある「植物園駅」が、この観光列車の乗り場となっています。なお、1861年の操業当時、運行はセントロからここ植物園駅までの区間のみで、その後徐々に線路が延伸されていったのだそうです。

今から1年以上前に当たる昨年3月、この汽車に乗るため、朝早くバスで植物園駅へ行ったことがありました。チケットを買い、他の乗客たちと一緒に乗車開始を待っていたところ、係の女性が乗客を集めて何か話し始めたのです。スペイン語なので私は全然分からないのですが、それを聞いていたダンナがぽつりと一言、「なんだか、あんまりいい話じゃないみたい」。なんでも運転手が来ないため、今日はやむをえず運休になったとのこと。「そんなのアリ?」と思ったものの、汽車が走らないことにはどうしようもなく、泣く泣くまたホテルへ取って返すハメになったのでした。長いこと待たされた乗客たちが、ひとことの文句も言わず、大人しく帰っていく様子から、こういった運休も毎度のことなのかもしれないと想像したのを覚えています。

 

「運行は中止だけれど、客車に入ってみる分には構わない」と言われたので、せっかくですから中だけでも見せてもらうことに。右上の写真は、そのとき撮った客車の様子。床は古風な板張りで、さすがに相当古いのですが、意外と居心地の良さそうな感じが漂っていて、良く言えば大変味があります。機関車には、この客車が2両連結されていました。


上の写真が、昨年3月に購入した硬券のチケット。「パラグアイ鉄道会社  ボタニコ(植物園)からアレグア行き  普通車」と印字されています。“TREN DEL LAGO”は、英語に直すと“TRAIN OF THE LAKE”。目的地のアレグアが、避暑地として知られるイパカライ湖に程近いことから、この名がつけられたのではないでしょうか。なお、乗車料金はパラグアイ国民の場合30000Gs(約750円)、外国人だと20ドル(約2400円)になるようです。

それから1年以上が過ぎた今日、再び植物園駅を訪れてみたところ、以前は毎週日曜日だった運行が月2回のみに改められ、祝祭日などにからめたイベント列車となっていました。今日は独立記念日と母の日(いずれも5/15)を記念した観光列車で、7月には子供向けに「インディ・ジョーンズ列車」、また12月には「ポーラー・エクスプレス列車」などが予定されているそうです。植物園駅から約1時間半かけて35km離れたアレグアという町へ行き、現地で3時間以上滞在したのち、またこの植物園駅に帰ってくるというスケジュールで、出発から帰着・解散まで約6時間半を要する長旅?です。列車内ではパラグアイの民族音楽の演奏や手品ショーが行われ、途中軽食や飲み物のサービスなどもあるそうですが、私は帰国の日程が近く、他に行っておきたい所がたくさんあったので、今日は発車の様子だけ見て帰ることにしました。


こちらが、発車間近の機関車の様子。パラグアイの鉄道黄金時代を思い起こさせる見事な勇姿ですが、貨車に積まれた燃料が石炭ではなく薪というのが、何となく滑稽で笑いを誘います。「薪が燃料だなんて、果たしてどんなものか」とタカをくくっていたものの、走り始めたら意外と速く、もうもうと蒸気を上げながら、あっという間に目の前を駆け抜けていきました。しかし、植物園駅からアレグア駅まで約35kmの道のりを1時間半かけて走るわけですから、時速にするとおよそ25km。自動車に余裕で追い越される速さですね。どうも速いのは最初だけで、それから先は保線の状況が良くないことから安全のため、あまりスピードを出さないようにしているのではないかと思われます。

 

 
写真左上は、セントロに残る始発駅の廃屋。鉄道は単線ですが、表示ではホーム(ANDEN)は2つあるようです。この駅舎の建設工事は、1861年2月に開始されたそうですから(完成は1864年)、同年10月の操業当時にはまだ建設途中だったことになります。相当ガタがきているものの、建物自体は大変立派で、これを見ると「パラグアイにも古き良き時代があったのだな」と思わされます。写真右上は、最近オープンしたらしい、この駅舎の建物を利用した博物館(鉄道博物館?)。外から写真を撮っただけで入館しなかったため、中の様子は不明ですが、左の窓口が券売所跡のようで、「一等車」と「普通車」という案内板が、それぞれ掛けてありました。


ひとつ謎なのが、観光列車のチラシに出ていた、コチラ↑の古い写真。奥に写っている駅舎が、上に現時点での写真を載せた、セントロにある始発駅です。二頭立ての馬車がレールの上を走っているので、最初期の頃は鉄道馬車だったのかと思いましたが、すでに出来上がっている様子の駅舎から判断すると、この写真は1864年以降に撮られたことになります。鉄道の操業開始が1861年ですから、1864年時点では、とっくに列車による運行が行われていたと思うのですが・・・。開業当初は、鉄道馬車による運行も併せて行われていたということなのでしょうか? 観光列車のチラシには、この写真についての説明はなく、謎は深まるばかりです。


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山梨県から来た車 [アスンシオン点描]

前回述べたように、パラグアイにはたくさんの日本車が走っていますが、それらは正規の代理店を通して販売されたもの(及びその中古車)と、もともと日本から中古車として輸送されてきた車とに分けられます。まずは正規代理店を通して、新車としてパラグアイで売買される日本車の例をご紹介します。

南米パラグアイにも、世界の有名自動車メーカーの販売店がありますが、中でもトヨタは日系の優良企業が正規代理店になっていて、時おり大通り沿いなどで、立派なショールームを備えたトヨタの販売店を目にします。写真下は、現在パラグアイで売り出し中?の、スズキのスイフト。日本ではサッカーの稲本選手のCMでおなじみですね。左はショッピングセンターの駐車場に掲げられていた看板で、右はアスンシオンのセントロ(市の中心部)近くに停車していたピカピカのスイフトです。パラグアイは右側通行なので、もちろんこれは左ハンドル仕様のスイフト。シートのビニールカバーもかかったままで、まさに新品同様といった様子でした。パラグアイの新車事情については、買った経験がないので何ともご説明できませんが、アスンシオンの日本人学校に赴任されてきた先生方などは、正規代理店経由で購入されたと思しき、左ハンドルの日本車(トヨタのRAV4やランドクルーザー・プラドなど)を愛用されているようです。

 

 

そしてもう一つが、日本から中古車として輸送されてくる車です。貨物船に載せられ、日本の港を出た中古車は、チリ北部のイキケという港町で降ろされます。しかし、残念ながらこれらの日本車、このまま乗ることはできません。そう、南米ではほとんどの国が右側通行ですから、ここでハンドルを右から左に付け替えるという荒療治が必要になるわけです。そして、パラグアイの中古車バイヤーによって買い取られた車は、南米大陸のほぼ中央に位置するパラグアイ目指してアンデス山脈を越え、3000km以上もの道のりをひた走って、この地へ運ばれるのだと聞きました。こちらで何喰わぬ顔をして走っている中古日本車も、太平洋を渡り、アンデスの山並みを越えてきたのかと思うと、それだけで何だか愛おしく見えてくるというものです。なお、これだけの手間暇がかかっても、正規輸入の日本車よりは格安なのでしょう、パラグアイにある日本の車の多くが、この改造タイプの中古車ではないかと思われます。

なお、ダンナによると、正規輸入車と、中古車として輸入された日本車は、ワイパーの向き(右ハンドルと左ハンドルでは、ついている向きが逆)や、日本のRV車などにつけられている補助ミラーの有無などによって見分けることができるのだとか。つまり、左ハンドルに改造されていても、ワイパーの向きが左ハンドル用に直されていなかったり、補助ミラーが左のフロントフェンダーについたままになっている場合、これは日本から輸入されてきた中古車だと判別できるというのです。また、海外仕様車は、日本での呼び名とは違う名称がつけられるケースが多いらしく、写真下のトヨタ・ハイラックスサーフは北米などでは“4Runner”名義で、三菱のパジェロは北南米では“Montero”の名前で販売されており(イギリスでは“Shogun”というらしい)、もしパラグアイでパジェロのエンブレムをつけたまま走っている車があれば、これも日本から中古車としてやって来た車だということになるわけです。


輸入中古車の良い例が、写真上のトヨタ・ハイラックスサーフ(92年式)。これはウチのマイカー・・・、ではなくてダンナの社用車です。社用車と言うと、黒塗りの高級車などを思い浮かべるかもしれませんが、調査機械を積んで地方の現場へ行く都合上、このような4WD車となりました。海外で車を購入するとなったら、そりゃ誰だって、「日本ではなかなか買えないような車がいいな」と思いますよね? 私も「これは滅多にないチャンスだ」と考え、日本でお洒落なTVCMを目にしていたプジョーかルノーにしようとダンナに提案してみたところ、「そんな予算、ないから・・・(怒)」と、残念ながら即座に却下されてしまいました。(ちなみにダンナは、前回写真を載せたワーゲンバスにしたかったそうです。ワーゲンバスなら、まだこっちで良かったかな・・・)

この車も南米で右ハンドルから左ハンドルに改造された、いわゆる“パチモノ左ハンドル”ではあるものの、ダッシュボード周りもそこそこキレイで、素人目にはとてもムリヤリ付け替えたようには見えません(車に詳しい人が見たら、たぶん一目で分かると思いますケド)。私は運転免許はおろか、生まれてこの方マイカーというものにまったく縁がなかったため、車といえば当然右ハンドルのレンタカー程度しか乗ったことがありませんでした。ところがパラグアイでは左ハンドルですから、助手席に乗るつもりで間違えて運転席側に回ってしまい、ダンナに毎度「アンタ、そっちじゃないよ」と注意される始末。ま、そういうダンナはダンナで、思い出すのは去年一時帰国した際、レンタカーで北海道を回ったときのこと。他にほとんど車の通らない対面通行の道路を走行中、「ああっ!」といきなり大声をあげたかと思うと、「やべっ! 今までずっと、右側逆走してた!」と言いながら、慌てて左側に車線変更していたことがありました。助手席に座っていながら気づかない私もどうかと思いますけど、まったく“慣れ”というのはオソロシイものです。

ちなみに上の写真の車、ワイパーの向きは左ハンドル用に直されていますが、補助ミラーは元の位置についたまま。街でときどきすれ違う“4Runner”は、一応同じ車ではあれど、向こうは初めから左ハンドルで作られた正規輸入品。「こっちはパチモノか・・・」と思うと、そこはかとない敗北感が漂ってきます。なおこのハイラックスサーフ、クーラーは壊れて作動せず、走行距離はすでに10万kmを超えています。パラグアイには中古車販売店がたくさんありますが、ダンナは仕事先の知人を通して、所有者から直接購入したそうで、お値段は5000ドル(日本円で約60万円)だったとのことです。

そして、日本の中古車である何よりの証拠が、リアウィンドウに貼られたこのシール・・・


山梨県龍王町の車庫証明です!

日本車は中古でもやはり人気があるようで、この車、実はもう次の所有者が決まっています。どうも相当前からこのハイラックスサーフに目をつけていたらしいカルロスさん(ダンナの以前の仕事仲間)が、早々に「日本に帰る際、譲ってくれよ」と申し出てくれたというのです。その後、ダンナの帰国が予定より遅れていることもあり、カルロスさんから度々、「オレの車、大丈夫だよな? 他に売ったりしてないよな?」と電話で念を押されるとのこと。首を長くして待っていてくれる人がいるのですから、こんな有難い話はないですね。パラグアイでは、車はボロボロになるまで乗るのが常識?のようなので、この車も、少なくともあと10年以上は現役で活躍することと思います。山梨県龍王町(現・甲斐市)でその昔、赤いハイラックスサーフに乗っていたアナタ! あなたのかつての愛車は、地球の反対側パラグアイで、今も元気に頑張っています。


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パラグアイ車事情 [アスンシオン点描]

下に載せた写真は、パラグアイで少しずつ撮りためてきた車の写真の一部です。ここアスンシオンでは、新しい車も時おり目にしますが、それ以上に、下の写真のようなスクラップ寸前とも思えるボロボロの車がたくさん走っているのには、毎度感心させられます。上の2台はプジョー、中央左はフォルクスワーゲン、中央右はいすゞ製。下の左はワーゲン・ビートルの改造車、その右はシトロエンではないかと思われます。いずれも相当使い込んではあるものの、別にこの場に捨ててあるわけではなく、どれも皆バリバリの現役です。自分は元々車にはあまり興味がなかったのですが、アスンシオンには日本では見かけないような車種が多いので、つい「どこの車だろう?」と気になってしまいます。

 

 

 

そこで今日は、アスンシオンでは実際に、どこのメーカーの車がどれだけ走っているのか、ひとつ調べてみることにしました。私は車についてはまったく知識がないので、自称“元・車好き”のダンナの全面協力を得て、これまで蓄積してきた“ムダな知識”をフル活用してもらうことに。調査地点は、ホテルから徒歩約5分のところに位置する、片側2車線の“ペルー通り”。交差点の角にあるコペティン(定食屋さん)の窓際の席に陣取り、約15分間に通過した車両で、メーカー名が判別できたもののみをチェックしました。以下は、通過台数の多い順に並べたブランドのランキングと、時間内に実際に目にした車種名です。(近年の自動車業界再編に伴う合併や提携・傘下は大変ややこしいので、それらはすべて無視しています。以下のリストは正しい会社名ではなく、「車に詳しくない人でも見当のつくブランド名」だと考えてください。)


1位(69台)  : トヨタ[カローラ、RAV4、ハイエース、マークⅡ、ランドクルーザー、クラウン など] 2位(64台)  : 日産[サニー、ダットサン、セレナ、テラノ、サファリ]

3位(49台)  : 三菱[デリカ、パジェロ]

4位(33台)  : Mercedes-Benz〈独〉
5位(29台)  : Volkswagen〈独〉[ビートル、ワーゲンバス]
6位(19台)  : Chevrolet〈米〉
7位(14台)  : Peugeot〈仏〉
8位(13台)  : FIAT〈伊〉、マツダ[ファミリア、フェスティバ]
10位(12台) : スズキ[カルタス、エスクード]
11位(10台) : いすゞ
12位(9台)  : KIA〈韓〉、HYUNDAI〈韓〉、Ford〈米〉[エスコート]
15位(5台)  : Renault〈仏〉、ホンダ[シビック、シティ]
17位(4台)  : VOLVO〈スウェーデン〉
18位(3台)  : Rover〈英〉「ミニ」、Chrysler〈米〉[ジープ、チェロキー]
20位(2台)  : ダイハツDAEWOO〈韓〉、BMW〈独〉、Land Rover〈英〉[レンジローバー]
24位(1台)  : Audi〈独〉、Alfa Romeo〈伊〉

※この時間内では見かけなかったものの、他で目にしたメーカーとしてはCitroën〈仏〉があり、またダンナによると、スバル[インプレッサ]も時々走っているそうです。


常日頃、「日本車も結構多いな~」とは思っていたものの、予想をはるかに上回り、1~3位を日本の自動車メーカーが独占するという結果になりました。台数を見ても、日本の車が全体の2/3近くを占めています。いや~、日本車、強いですね!

4位のメルセデス・ベンツは、日本では高級車のイメージが強いですが、同時に世界最大のトラックメーカーでもあるそうで、ここでカウントされたのも、ほとんどがトラックやバスなどの商用車でした。5位のフォルクスワーゲンは、日本でもおなじみのビートルの他、上に写真を載せた、いわゆる“ワーゲンバス”をよく見かけます。南米諸国はアメリカと陸続きで、距離的にも近いため、シボレーフォードなどアメリカの車が走っているのは至極もっともなのですが、ヨーロッパの車が多いのはなぜかと思ったら、フォルクスワーゲンプジョーフィアットルノー辺りのメーカーは、アルゼンチンやブラジル、チリなどに工場を持っているそうで、中でもフィアットフォルクスワーゲンと並びブラジルで最もポピュラーな車なのだとか。なお、シボレーと言えば、日本では異様に車幅の広いフルサイズバンの印象が強く、「とにかくデカいアメ車のメーカー」だと思い込んでいた私は、パラグアイでシボレーのコンパクトカーを目にし、「こんな車も作ってたのか」と驚かされたことがありました。上のランキングにあるシボレーの19件や、メルセデス・ベンツの33件中には、このように色々なタイプの車が含まれているのに対し、BMWは高級路線一筋ですから、私がここで目にした2台は、パラグアイに住むほんの一握りの富裕層によって購入されたものだと思われます(時折“Z3ロードスター”などの、ものスゴい車も見かけます)。

あと、意外だったのは、日本ではあまり見かけない韓国メーカーの車が走っていること。私が知っていたのは、東京・虎ノ門に販売店のあるヒュンダイ(現代)だけで、キア(起亜)デーウー(大宇)は初耳でした。パラグアイには日系の他、韓国系の移民も多く、韓国系の人たちの間では親近感のある車なのかもしれません。見た目は結構きれいなので、「韓国車も悪くないかも」と思いましたが、パラグアイで自動車整備の仕事をされている日系人の方によると、「外見はいいけど、中身はまだまだ日本車には及ばない」のだそうです。

いかがでしょう。自分としては今回の記事が、これまででいちばん価値あるレポートになったのではないかと思うのですが・・・。なお、こちらで走っている車には2種類あり、正規の代理店を通したものと、中古車として輸入されたものとに分けられます。それについては次回、日本車を例に取ってご説明します。

 

         
写真上は、一瞬目を疑った、南米パラグアイの目抜き通りを疾走する「カンガルー特急便」。パラグアイは右側通行なので、これは左ハンドルに改造されたカンガルー便です。企業名などが日本語で書かれた中古車は、一目で「日本から来た車=性能の良い日本車」だと分かるため、あえて日本語は消さずにそのまま利用しているケースが多いのだとか(ダンナは以前、仕事先のアフガニスタンで、「○○幼稚園」と書かれたマイクロバスに、ヒゲ面のむさ苦しいおっさんが山盛り乗っているのを見たらしい)。また、日本車以外の車に、わざと漢字風の文字(実際はデタラメ)を書いて日本の中古車を装うという、大変手の込んだ偽装?をする国や地域もあるのだそうです。


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パラグアイの国立美術館 [アスンシオン点描]

パラグアイでの滞在も残り一週間を切った今頃になり、パラグアイのいわゆる観光名所についてほとんど何も書いていなかったことに気づいたので、今日は数ある?名所のうち、セントロにあるパラグアイの国立美術館を訪ねてみました(写真下)。ふらっと入ってはみたものの、1階の右側は図書室で、展示室は1階の左手と、2階の右手・左手の計3つ。1階では企画展なのか現代美術の展示が行われ、2階にはヨーロッパ絵画らしき肖像画や風景画がかけてありましたが、内部は撮影禁止になっていて、知っている画家の作品も見当たらなかったため、特にメモも取らずに出てきてしまいました。館内は入場無料で受付もなく、また、監視員らしき人もほとんどおらず、何だか警備の甘さばかりが目についた美術館でした。

「ま、これといって盗られるモノもないってことか」と思いながら建物を出ようとしたとき、入口脇の掲示板に貼られたポスター(写真下)に、ふと目が止まりました。「インターポール(国際刑事警察機構)が探している美術品」とあるので、どこで何が盗まれたのかと思って見てみたところ、このポスターの右上にある絵画、“NCB:ASUNCION”となっており、盗まれた場所は“Museum”と書かれているではないですか。ホテルに帰って調べてみたところ、“NCB”とはインターポールの国家中央事務局(加盟国各国の窓口に当たるもの)の所在都市名を表しているとのこと。つまりこの作品は2002年7月29日、パラグアイ国内の美術館から盗まれたものだというのです。

 
(写真左・右ともに、インターポールのHPから拝借した、2002年12月版のポスターの画像。「インターポールが今いちばん探している6点」というわけではなく、こういった盗難事件が起こるたび、新たなポスターが発行されている模様です。なお、ポスターの左上に載っているのは、オランダで2002年12月に盗まれたゴッホの風景画。“RECOVERED”のマークがついているのはスウェーデンで同年11月に盗まれたシャガールの作品で、こちらは翌年1月に無事持ち主の手元に戻ったようです。)

パラグアイには、今は博物館となった旧国会議事堂をはじめ、アスンシオン市の歴史博物館や先住民アートの美術館など、いわゆる“Museum”と呼ばれるものがいくつもあります。果たしてどこの美術館から盗まれたのか、インターネットであれこれ検索してみたところ、盗難に遭った美術館は、やはり今日私が訊ねた、そしてインターポールのポスターが入口に寂しく貼ってあった、あの国立美術館であることが判明したのです。

パラグアイで国立美術館がオープンしたのは1909年。以来、館内ではスペイン人画家ムリーリョやルシニョール、イタリアの画家ティントレット、ファヴレット、チアルディなどの作品が展示されていたそうで、2000年頃に出版された『地球の歩き方』には、「規模は小さいがコレクションのレベルが高い」と書かれています。ところが今を遡ること約5年前の2002年7月29日、そのコレクションの中で最も貴重な5作品(十数点としている資料もあり)が、強盗団によって持ち去られたというのです。盗まれたのは、あのインターポールのポスターに出ていたムリーリョの聖母子像の他、クールベの風景画、ティントレットの自画像などで、資料によると「被害総額は100万ドルを優に超える」とのことでした。

盗難の通報を受けた警察は、道路を挟んだ向かいにある空き店舗内で、シャベルとツルハシを発見。ほどなくして、この建物の地下から約25メートル先にある美術館へと伸びる、木の杭で補強された地下トンネルの存在が明らかになりました。つまり、犯行グループは身元を偽ってこの空き店舗を借り、2ヶ月かけて美術館へと通じるトンネルを掘り、そしてついに誰にも気づかれることなく、まんまとお目当ての絵画を盗み出したという訳なのです。トンネルを掘って盗むだなんて、シャーロック・ホームズの『赤毛連盟』じゃあるまいし、どれだけ時代錯誤なことをやっているのかと思われるかもしれませんが、1年ほど前だったでしょうか、パラグアイでも銀行までトンネルを掘った強盗団がいたり、2005年にはブラジルでやはり同様の手口により、銀行から75億円もの大金が盗まれたりしているのですから、まだまだこの“トンネル作戦”は、南米では王道を行く強盗手段であるようです。

上のポスターに盗難絵画が掲載されている画家ムリーリョ、調べてみたら『大辞林』や『大辞泉』にもしっかり載っていました。「ベラスケスと並ぶスペインバロックの代表的画家」だそうで、上のポスターにあるような、やさしいタッチの聖母子像などが有名なのだとか。この盗難に関して国立美術館の担当者曰く、「不況の影響で、警備のための充分な予算が取れなかった」。どんな経緯でパラグアイの国立美術館が所持するようになったかは不明ですが、そんなお宝を持っていたのなら、いつまでも大事に守り続けて欲しかったですね(写真上は、国立美術館の全体像。こんな無防備な建物では残念ながら、遅かれ早かれ何か盗まれたに違いないと思います)。名画は盗まれるわ、刷り立ての新札は盗まれるわで、踏んだり蹴ったりのパラグアイ政府・・・。上のポスターの絵について何か情報をお持ちの方は、どうぞ最寄りの警察署までご連絡ください。


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寒波到来 [アスンシオン点描]


今回のパラグアイ訪問は私にとって3度目で、1回目は2005年9月、2度目は2005年12月から翌年3月までのことでした。南半球にあるこの国では9~3月は春夏に当たるため、今回(5月)は私にとって初めての、パラグアイで迎える“夏の終わり”ということになります。先にパラグアイ入りしていたダンナが、4月中旬頃から電話で「こっちは寒いよ~」と泣き言をもらすようになったのを受け、主に秋物の服をスーツケースに詰め込んで、いざパラグアイへと飛び立ちました。それなのに、アスンシオンに着いたその日から、とにかく毎日蒸し暑く、気温も30度を優に超える日がひたすら続く始末。「今は暑いけど、ちょっと前まではホントに寒かったんだよ・・・」と小声で言うダンナの姿を横目に、「寒いなんてウソじゃん! 秋物なんて全然要らないし・・・。だまされた!」と、一人憤慨していたのでした。

ところが、昨日の午後、アスンシオンはバケツをひっくり返したような大雨に見舞われ、この雨を境に天候が変わったのか、今朝目覚めると、街は先日までの猛暑がまるでウソのような肌寒さ。朝のうちは大変冷え込みが厳しかったので、半袖シャツに長袖カーディガンを重ね着し、さらにマウンテンパーカーのボタンを首までしっかり止めて、街へ出かけて行きました。午後になって晴間が出てくると寒さが少しずつやわらぎ、気温も15度前後まで上がったため、「こんな格好、ちょっとオオゲサだったかな?」と気になったものの、すぐにそんな心配は無用と判明。それと言うのもこちらの人の防寒対策、なかなか見事な気合の入りようなのです。「スキーウェアのような厚手の上着」+「毛糸の帽子」というコーディネートは基本中の基本で、ちょっと裕福な感じの人になると、気温15度程度でフサフサの毛皮のケープまでまとっている有様。「いや、そんなに厚着するほど寒くないのでは・・・?」と、一瞬奇妙に感じましたが、パラグアイではこれがほぼマックスの寒さなのでしょう、自然とこの程度の厚着になるのだろうと思われます。

 
写真左上は、制服のコートを着たおまわりさん。警官の制服にこんなコートがあるとは知りませんでしたが、ポケットに手を入れて、いかにも寒そうな様子です。写真右上は、バスを待つ女性。こういったダウンジャケット風の上着姿の人をよく見かけます。


写真上は、セントロにあるデパートの冬物売場。これだけ寒い日もあるからでしょう、冬物もきちんと売っていました。ここはデパートなので60000Gsくらい(約1500円)からの品揃えでしたが、街の衣料品店なら、もっとお買い得な値段のものも置いていると思います。

「意外に寒かった」というのは、実は今回が2度目で、9月に初めてパラグアイを訪れた際、季節は春なので当然暖かいことと思っていたらとんでもなく寒く、たまりかねてジャージの上下を買ったことがありました。パラグアイの年平均気温は約23度(東京は17度)ですが、真夏(11~3月)には40度近くになり、逆に真冬(6~8月)の朝晩は5度以下まで下がる日もあるのだそうです。一日の中での気温差が激しい春や秋には、早朝と日中の温度差が20度を超えたり、また、日本のように「夏の間はずっと暑く、冬は毎日寒い」という分かりやすい気候ではないため、真冬に30度を越したりすることも度々なのだとか。現在借りているホテル内山田の部屋には冷暖房機がついているので、暑さ寒さの苦手な自分は「昨日まではクーラー、今日からは暖房」という極端な切り替えをしましたが、こんなことは日本では滅多にないでしょう。「南米なんて、年中半袖でOKなんじゃないの?」と思っていた人、結構多いんじゃないですか? 時期によっては半袖のみでは当然キビシイので、パラグアイを訪れる予定のある方は、ある程度の防寒着を持って来られることをお勧めします。


写真上は、今日の夕方の空模様。真夏の間は決して見ることのなかった、秋の雲です。


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セントロの時計、その後 [アスンシオン点描]

「南米パラグアイの首都アスンシオン」と言われても、あまり日本人にとってなじみのある場所ではないため、ピンと来ないという方も多いと思います。しかし、意外なところに接点がありまして、アスンシオン市は日本の千葉市と、長年姉妹都市の関係にあるのです。どういう経緯があってセレクトされたかは不明なものの、アスンシオン市との間に提携が結ばれたのは、今をさかのぼること37年前の1970年1月1日。これは世界に7箇所ある千葉市の姉妹都市の中で、同年同日に姉妹都市となったカナダのノースバンクーバー市と並び最も古く、アスンシオンは千葉市にとって、いちばんお付き合いの長い海外都市だと言うことができます。

                
さて、話はここからが本題です。写真上は1985年1月、姉妹都市提携15周年を記念して、千葉市からアスンシオン市に寄贈され、セントロ(市の中心部)に設置された太陽電池時計と、その支柱部分に据え付けられたプレート(裏はスペイン語表記)です。写真では分からないと思いますが、8:34を差したこの時計、何を隠そう止まっています。今を遡ること1年4ヶ月前の2005年12月末、この止まったままの時計の惨状についてブログに書いたところ(2005/12/27 の記事)、それを読んだ千葉出身のウチの母、何を思ったか私に一言の断りもないまま匿名で千葉市役所に電話をし、「インターネットで偶然見たんですけど、アスンシオンにある千葉市寄贈の時計、何だか止まっているみたいですよ・・・」と、わざとらしいタレ込みをするという暴挙に出ました。

それから3ヶ月が過ぎた2006年3月半ばのこと。2度目のアスンシオン滞在を終えての帰国途中、乗り継ぎのサンパウロの空港で、あの時計のことなどすっかり忘れかけていた私に、運命のイタズラとも言うべき事件?が起きたのです。広い空港内でさんざん迷った挙げ句、ようやくたどり着いた乗り継ぎカウンターには既に先客がいて、そこではスーツ姿の日本人らしき中年男性が、ちょうど手続きを始めたところでした。この男性の後ろで、自分の番が来るのを待っていると、どうも途中で何か予期せぬトラブルが発生したようで、地上係員はひとことふたこと言い残したまま足早にどこかへ消えてしまい、カウンターに置き去りにされたその男性と私は、ただそこにぼんやり立ったまま放置されるハメに・・・。

「どうしよう・・・」といかにも不安そうな様子のこの男性、訊けばやはり日本人で、私と同じルートでこれから日本へ帰るとのこと。「わざわざパラグアイへ、何の用事かな」と思い、「パラグアイへはお仕事でいらしたんですか?」と訊ねたところ、「いや、実は自分は千葉市の職員で・・・」とおっしゃるではないですか。ちょうどその数日前まで、アスンシオンで消防の国際会議が行われており、千葉市の消防関係の部署にお勤めのその男性は、姉妹都市の千葉市代表として国際会議に参加されていたのだというのです。思いもかけず恵まれたこのチャンスを逃す手はないと思い、「そういえばセントロに、千葉市から寄贈された時計がありませんでしたっけ?」としらばっくれて訊ねると、「そうそう。ちょうどアスンシオン行きが決まったとき、国際交流課の担当者がやって来て、『ウチが贈った時計、どうも止まっているみたいだから、写真撮ってきて』って頼まれたんだよ」と一言。もうちょっと色々突っ込んで訊こうとした矢先、やってきた地上係員によって乗継ぎ手続きが再開されたため、残念ながら会話はこれにて終了。その後、無事手続きを終えたこの男性、「あ、役所の若いコたちにお土産買わなきゃいけないんだった・・・」とつぶやきながら、足早に免税店の方へと去って行かれたのでした。(お名前もお伺いしませんでしたが、その後お元気でいらっしゃいますでしょうか・・・?)

そんなことがあってから、すでに1年以上もの月日が過ぎた2007年5月。こうしてまたパラグアイへやって来たわけですが、あれからずっと、私の心の片隅にひっかかっていたのは、「セントロの時計はどうなっただろう?」ということ。真面目で仕事熱心な日本のお役所のことですから、その後きっと何かアクションを起こしたに違いないと思い、パラグアイ到着の翌朝、はやる気持ちを抑えながら、早速セントロへ行ってみたところ・・・。

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ああっ! な、なんと、時計がないっ・・・!! 口あんぐりで言葉も出ない私に、ダンナが一言、「千葉市はすべてなかったことにしようとしている」。だけど、日本語とスペイン語で書かれた「千葉市寄贈」のプレートは依然残ったままですよ? “なかったこと”にしたいなら、このプレートを外さないことには意味ナイですよね?? 台風か何かでもげたのかと思ったものの、支柱の先を見る限りでは、きれいにスパッと外れて(切れて?)いるので、やはりどうも意図的に外したようです。支柱がそのまま残っていることから、時計部分を修理したのち、元通り設置し直すつもりなのではないかと想像しますが、あの“ドロンズ”(古い!)さえも避けて通った“南米の田舎”パラグアイとはいえ、仮にもここは一国の首都ですからねぇ・・・。あの時計では、さすがにちょっと時代遅れな感じが否めません。


なお、写真上は、“千葉市の時計跡”の目と鼻の先のメインストリートに最近設置された、巨大なデジタル時計(気温と交互に表示される)。セントロでは、もう時計は充分間に合っているようですので、千葉市の皆さま、僭越ながら言わせて頂くと、もう時計にこだわる必要は全然ないと思います。


※1985年、千葉市がアスンシオン市に太陽電池時計を贈った際、アスンシオン市からは千葉市動物公園の開園に合わせて、南米原産の鳥“オニオオハシ”が寄贈されたのだとか。写真上は、パラグアイのレストランで飼育されていたオニオオハシ(こんなトロピカルな鳥が、普通に市街地を飛び交っているわけではありません)。なお千葉市動物公園は、二本足で立つレッサーパンダ「風太くん」で一躍有名になった、あの動物園です。


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ぶらり路線バスの旅:パラグアイ編 [アスンシオン点描]

「皆さんこんにちは、山〇良一です。今日の『ぶらり路線バスの旅』は、南米パラグアイの首都アスンシオンから、九州竹田市の姉妹都市であるサン・ロレンソ市まで、約15㎞の道のりを旅していきます。今回はどんな旅になるんでしょうねぇ、楽しみです!」


「さて、バスはどこから乗るのかなぁ? バス停らしきものが見当たらないんだけど・・・。あ、あの人、手を横に挙げて合図していますよ。そうか、あれで停まってくれるのか。よし、じゃあ、次のあのバスを停めてみましょう」

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「あ、バスが近づいて来ましたよ。しかしずいぶんハデなバスだねぇ。運転手さん、このバス、サン・ロレンソ方面に行きます? ああ、よかった。ええと運賃は・・・2100Gsか。日本円で40円とは有難いねぇ。おおっと、ドアを開け放したまま走り出しちゃいましたよ。危ないので、とりあえず奥の座席に座りましょう。そ、それにしてもこのバス、ずいぶん揺れるなぁ・・・。何だろうね、この運転の荒っぽさ。ディズニーランドの“ビッグサンダー・マウンテン”かと思っちゃったよ。運転手さん、くれぐれも安全運転でお願いしますよ」

「おやおや、何か大きなカゴを持った人が乗り込んできましたよ。運賃払ってないけど、いいのかなぁ・・・。あ、この人売り子なんだ。え? チパ? ああ、市内のあちこちで売っている、あのチーズパンのことね。よし、僕も買ってみよう。おじさん、1個いくら? はいはい、1000Gsね。こちらの人の感覚としては100円くらいかなぁ。モグモグ・・・。うん、うまいうまい。だけどこれ、ノドが渇くねぇ・・・」


「お、ちょうどいいところへ、生ジュースの売り子が乗ってきました。見たところオレンジジュースみたいだけど、あのお兄さんが絞っているのかなぁ。なんか、手ェ洗ってなさそうだし・・・。おなか壊したら大変だ、やめときますか。よしよし、今度はコーラの売り子が乗ってきたぞ。瓶コーラとは古風だねぇ。おやおや、まだ子供じゃないの。坊や、1本ちょうだい。これも1000Gsか。あら、瓶からプラスチックのコップに注いでくれるの? ずいぶん親切だねぇ。ありがと、坊や」

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「それにしても、さっきからいろんな売り子が乗ってくるなぁ。お兄さんは、語学の本か。パラグアイのふたつの公用語、スペイン語とグァラニー語、それからブラジルのポルトガル語、この1冊でOKだって。チェックのシャツのおじさんは、何か持ちながら宣伝文句をしゃべっているみたい。あ、あれ、電卓じゃないの。バスで電卓・・・、売れるのかねぇ」

「果物の売り子が降りていったと思ったら、今度はパンツの替えゴム屋さんが乗ってきたよ。売り手の人は意外とアッサリしていて、売れないと判断すると、すぐ降りて次のバスに乗りかえてるね。売り子はバス代不要みたいだから、こうやって売りながら出かけていって、売りながら帰ってくれば、交通費がかからなくて便利だなぁ。乗客にしてみても、バスに乗ったまま買い物ができるなんて、なかなか画期的じゃないですか。日本でもこういうの、やってみたらどうですかね」

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「あれ、今度の二人連れはギター持ってる・・・。ああっ、ギターを弾きながら歌い出しました。曲はパラグアイの民謡かな? おっと、後ろからおばさまが乗ってきましたよ。ちょっとアンタたち、邪魔よってな感じでしょうか。ミュージシャンの二人はヒョイとネックを持ち上げて、ハイ、どうぞ、お通りくださいって、いやはや、慣れたもんです。しかし、絶妙のハーモニーで、なかなか聴かせますねぇ。なるほど、乗客のチップがお目当てなのね。相場は1000Gsか。よし、僕も渡してみよう。それにしても、飽きさせませんよ、このバスは」

「楽しいのはいいんだけど、通りの電光掲示板には42℃って出ているのに、このバス、クーラーがついてなくて暑いんだよねぇ。他の路線バスもみんな同じみたいだけど・・・、あ、今すれ違ったバス、運転手側のフロントガラスがなかったぞ。あんな車、公道走ってていいんですか? おや、向こうのバスは、路肩に停まってるけど故障かな? あらら、乗客が降りてきてみんなで押し始めましたよ。いや~、すごい国に来ちゃったなぁ~。とりあえず走ってくれているだけで有難いと思わなきゃいけないね」


「そろそろこの辺で一度、降りてみますか。けど、日本の路線バスにある、降車合図の押しボタンが見当たらないな。降りるときはどうすればいいの? あ、天井に渡してあるヒモを引っ張ってる人がいる。なるほど、あれが降りる合図なのね。よし、このヒモを引っ張ってと・・・。ん? ああっ、停まりません。微妙に徐行するだけです。こりゃ、危ないなぁ。女性の乗客の場合はちゃんと停まるみたいだけど、男は適当なところでタイミング見計らって飛び降りろってことですか。日本のバスとは大違いだねぇ。よし、じゃあ、僕もこの辺で・・・。えいやっと! ああ、危なかった~。この国ではバスから降りるだけでも一苦労だね」

「おやおや、あれ、何でしょうね。通りに人がたくさん集まっていますよ。皆さ~ん、何してらっしゃるんですかぁ?」 (以下略)


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量り売り文化 [アスンシオン点描]

ここのところ数回にわたって、ポルキロと呼ばれる量り売り式のレストランや、お肉の量り売りのことなどについて書いてきました。お総菜やお肉は、日本でもグラム数を指定して買う小売り店が多いので、あまり珍しい感じはしないことと思います。しかし、ここパラグアイは一種の“量り売り文化”の国であり、「え? こんなものまで?」と思うような意外な商品が、いたって普通にキロ当たりの値段で販売されているのです。今日は、スーパーで見る量り売りについてご紹介してみたいと思います。

上の写真は、スーパーの野菜売場を写したもの。野菜や果物はほとんどが量り売りで、欲しい分だけビニール袋に取り、写真の左端に写っているデジタルの秤のあるカウンターまで持っていけば、係のお兄さんが手元のボタンで該当する商品を選んで秤に載せ(あらかじめ各商品のキロ当たりの値段が入力されている)、値段とバーコードを印字したシールを貼って渡してくれます。日本では、野菜や果物は1個当たり(あるいは1パック当たり、ひと山当たり)の値段で売られているものがほとんどなため、日本の奥サマ方は、大きいものや重いものを選んで買っていきますが、こちらは重さによって値段が決まるので、皆、大きさよりも鮮度を気にして選んでいる様子です。なお、細ねぎやハーブなどの軽いものは、1束ごとの値段設定になっていて、量る必要のない場合もあります。

そしてコチラ↑が、スーパーのパン売場。パンは、売場に併設された工場で焼いている場合が多く、焼き上がったものから種類別にカゴに入れ、量り売りで販売されます。ドイツパンやピタパンなど一部の外国人向け商品は、それぞれ袋に入った状態でメーカーから仕入れているため、袋単位の値段になっているようです。

そして、どこのスーパーでも必ず目にするのが、上の写真のような容器です。これには大豆や小豆、落花生、とうもろこしの実、お米、コーヒー豆、塩、砂糖、マンディオカという芋の粉、小麦粉、パスタ類などが入れられており、同様に粉石けんやペットフードの容器も置かれています。これらがいちばん量り売りらしい、量り売りの王道をいく商品ではないかと思います。ちなみに、計量に使うデジタルの秤は、100g以上ないと値段が出ないシステムらしく、私は以前、塩を少しだけ買おうとして、取ってきた量が100gに満たず、係のお姉さんに、"más"(英語で言う "more"。「もっと取ってこい」の意味)と言われて、つき返されたことがありました。この塩は1キロ当たり810Gsだったので、このときは結局110g分買って89Gs(約2円弱)!! なお、量り売りのものとあらかじめパックになった商品とでは、モノによって値段は様々のようですが、塩だけに関して言えば量り売りの方が、袋入りの商品よりもキロ当たりの値段は安かったようです。

日本では、何でもパックになって売られているため、最近何を量り売りで買ったか考えてみても、お肉やお総菜のほか、コーヒー豆程度しか思い出せません。そのため、パラグアイのスーパーでの売り方が何だかもの珍しく感じられますが、日本でも昔はお味噌やお酒、お茶葉などをはじめとした多くの商品が、量り売りで販売されていたはずです。うちは少人数家庭なので、「たくさん買ったほうがトク」という日本式の売り方は、以前からどうも納得がいきませんでしたが、パラグアイでの量り売りを見て、こんな公平なやり方があったのかと、目からウロコが落ちたような気がしました。過剰包装の商品から出る大量のゴミも、量り売りでしたら無縁です。この便利なシステムが、日本でも早く見直されて欲しいものです。


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