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チャコ平原を駆け抜けろ! [アスンシオン点描]

蒸気機関車の発車を見たその足で、再び車に乗り込み、今度はパラグアイの草原地帯であるチャコ平原(グランチャコ)を目指します。“チャコ”と聞いて、「どこかで聞いたような・・・」と思った方もいらっしゃるかもしれません。そう、アルゼンチンの草原地帯“パンパ”とともに、昔、地理の授業で覚えさせられたことがありましたね。私は「こんなこと覚えて、何の役に立つのやら」と思いながらも、言われるがままに「チャコが北で、パンパが南・・・」と、白地図にマルで位置を記した記憶があります。中学校だったか高校時代だったかも忘れましたが、子供の頃に名前だけ覚えたこのチャコ平原を、一度車でブッ飛ばしてみたかったのです。


上の図の中央右側にあるのがパラグアイで、アルゼンチンとの国境近くの★印が首都アスンシオン。国土を南北に突っ切って流れているのが、図中水色で示されているパラグアイ川(Rio Paraguay)で、この川によってパラグアイは東部と西部とに分けられています。パラグアイ川はのちにパラナ川に合流し、最終的にラプラタ川となって大西洋へと注ぐ河川であり、チャコ平原(図中緑色の部分)はこの川の西側に広がっているため、パラグアイ川に面する首都アスンシオンは、チャコ平原と川一本を隔てた場所に位置していることになります。しかし、チャコ地方にかかる橋と、アスンシオンのセントロ(市の中心部)とは少し距離が離れており、車で走っても30~40分程かかります。これは今から70年ほど前、ボリビアがパラグアイのチャコ地方へ進出してきたことで起こった国境紛争、通称“チャコ戦争”などにより、チャコ平原へと続く橋は首都警備のため、敢えて国家の中枢部から離れたところに設置したのだと聞きました。

 
写真上が、チャコ地方へと渡る橋の上から見た様子。正面が北(上流)で、右側がアスンシオン市内方面、左側がチャコ平原です。こうして並べて見ると、「どっちもどっちの田舎じゃない?」と思われるかもしれませんが、市内から橋へと続く道路には、そこそこ商店などもあって町らしい様子を呈しているものの、川沿いのエリアはアスンシオン市内側であっても、写真のようにほぼ手つかずのままか、逆にスラム化しているかのいずれかというのが現状です。


こちらがチャコ平原の道路の様子で、正面がアスンシオン市内方面、手前がボリビア方面。通る車もまばらですが、この道路はボリビアとパラグアイをつなぐ国際長距離バスのルートになっています。

チャコ平原を車で走ると、川を渡るまではあちこちで目にしていた背の高い木が、こちらにはほとんどないことに気づきます。目につくのは、チラホラと点在する低い灌木のみで、あとは一面の草原です。地下水調査の仕事をしているダンナによると、チャコ地方の地下水には塩分が多く含まれているためチャコに暮らす人の多くが、今も生活用水を天水(雨水)に頼っているのだとか。東部に比べて雨が少なく、水を多く使う農業には向いていないのでしょう、主に放牧地として利用されていることもあって、辺りには人や自動車の数に対して圧倒的に牛が多く、あちこちでのんびりと草をはみながら、それぞれが好き勝手に移動しています。車を降りて近づいても、これといって逃げもせず大人しいものですが、自動車は牛などおかまいなしに、ものすごいスピードで道路を駆け抜けていくので、ときには大型車にはねられた牛が倒れて死んでいたりすることもあるそうです。

 

チャコ地方には、以前からこの地に住む土着のパラグアイ人の他、1920~30年頃にヨーロッパから移住してきたキリスト教プロテスタントの一派、メノー派(メノナイト)の人々が暮らすコミュニティがあります。彼らは現代の文明の利器を使用せず、今なお近代以前の自給自足生活をしていることで知られ、男性はオーバーオールにシンプルなシャツと麦わら帽子、女性は地味色で無地のロングスカートのワンピースと、ひっつめ髪にボンネットという、大変古風なスタイルを守っています。イメージで言うと、『大草原の小さな家』の時代の衣装を、さらに質素かつ地味にした感じで、私がアスンシオン市内で見かけたときは、スーパーでの買い物を終え、年代ものの灰色のピックアップトラックへと乗り込む最中でした。本来は馬車を使って移動するのでしょうが、メノー派にも様々なグループがあるらしく、このコミュニティの人たちは現代文明をある程度取り入れた生活をしているのでしょう、そのときも確か缶詰か何かを買っていたと記憶しています。「あんまり見ちゃ失礼だ」と思いながら、同じ時代を生きる人間にはとても見えず、そこだけタイムスリップしてきたような古風な姿が気になって、ついつい見ないではいられません。日本では“メノナイト”よりも、その一派であるアメリカの“アーミッシュ”の呼び名で、彼らの作り出す非常にシンプルなスタイルの家具や、端切れを縫い合わせたパッチワークキルトなどが広く知られています。パラグアイのチャコ地方には、“フィラデルフィア”という名称のメノー派の人々の町がありますが、普通フィラデルフィアと言って思い出すのは、アメリカはペンシルバニア州の都市名でしょう。このアメリカのフィラデルフィアには、アーミッシュの人たちの大きなコミュニティがあり、またメノー派の人々が最初にヨーロッパからアメリカ大陸へ移り住んできた由緒ある場所だそうですから、パラグアイの町に同じ名前がつけられたのは、このことといくらか関係がありそうです。

なお、昨日アスンシオンの観光列車について書きましたが、かつてはパラグアイ北部にも、パラグアイ川と内陸とを結ぶ鉄道が延べ600km以上にもわたり、何本も敷設されていたのだとか。主に物資の運搬用として運行されていたものの、前述のチャコ戦争時に兵隊を移送したり、またメノー派の人たちが入植してくる際、一時的に旅客を載せて走ったこともあったのだそうです。

 
写真左上のように、な~んにもないところで、ドライブしていても景色にこれといった変化もないため、早々に飽きて引き返してきてしまったワケですが、こんなことでもなければ二度と足を踏み入れることもない場所ですから、行っておいて良かったと思います。写真右上が、チャコ平原から再び橋を渡り、アスンシオン市内側へ戻ってきた道路の様子。実は以前、まだ社用車がなかったとき、路線バスでチャコ地方の、いちばん近くの町まで行って帰ってきたことがありました。便数は必ずしも多くはないものの、チャコからアスンシオン市内まで働きに出る人たちの足となっているのでしょう、写真の右側に写っている赤と緑色のバスが、チャコ平原とセントロ間を結んで運行しています。このバスを使えば仮に自家用車がなくても、ちょっと様子を見に行くだけなら、セントロからチャコ平原へ行って帰ってくることも可能です。

さて、帰国を明後日に控え、明日がいよいよパラグアイで過ごす最後の一日となりました。明日はどこへ行こうかな・・・。


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